| 全米日系人博物館のウェブサイトにリンクされている 東栄一郎「日本人の海外移住略史 1868年−1998年」に対する 批判→反論→再反論(その2) |
| ※注意 この問題提起及び批判は、あくまでも全米日系人博物館が、「日本人の海外移住略史 1868年−1998年」という題でこの文書を公開することに問題があるのではないか、というもので、文責である東氏個人対するものではありません。改定案というのも、あくまでもそれを前提に考えたものです。 |
| 項目 | 内容 |
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@「日本人の海外移住略史 1868年−1998年」原文 |
1868年、横浜在住アメリカ商人ユージン・バンリードは、およそ150人の日本人労働者を(2)ハワイの砂糖プランテーションへ、そのほか40人をグアムへ送りました。この出稼ぎ労働者の一団は一般に「元年者」として知られ、政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国しました。近代日本最初の海外「移民」だった「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい取扱を受け、結局、国家の体面保持ということもあり、明治政府が救出に乗り出さなければなりませんでした。「元年者」の失敗もあり、政府はこののち二十年近く日本人の海外移住を許さず、かわりに北海道開拓を推進しました。
1885年ハワイ「官約移民」とともに、日本人の本格的な海外移住が始まりました。「官約移民」制度は、日本とハワイ王国(当時は独立国)の条約に則り、日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送るというものでした。1894年までの9年間に、総計2万9千人ほど(3)の日本人が、この制度のもとハワイへ渡航しました。同時に何千人もの日本人が、太平洋上の木曜島(英領)、ニューカレドニア、オーストラリア、フィージー(4)などへも渡りました。この時期の渡航者のほとんどは、海外への永住をめざした「移民」ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出稼ぎ労働者でした。 |
| A筆者の問題提起と改定案 | (2)ユージン・ヴァン・リードは、当時アグレマンを受けてはいませんでしたが、ハワイ国総領事の地位にありました(外務省外交資料館、日本外交史辞典編纂委員会『新版日本外交史辞典』、山川出版社、1992年)。その事実は記載すべきではないでしょうか。また人数は、153人とはっきりしています。 |
| ◆改訂案「アメリカ商人ユージン・バンリードは、およそ150人の日本人労働者を」→「ハワイ王国総領事を称していたユージン・ヴァンリードは、153人の日本人労働者を」 | |
| (3)前記のように、数字がはっきりしているものは、その旨記すべきではないでしょうか。 | |
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◆改訂案「2万9千人ほど」→「29,069人」 |
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| (4)記述の統一性がないです。ハワイが独立国であったこと、木曜島が英国領であったことを書くならば、当然全ての場所について、宗主国名を記載するか、全て省略するかのいずれかにすべきでしょう。 | |
| ◆改訂案「木曜島(英領)、ニューカレドニア、オーストラリア、フィージー」→「木曜島(当時英領)、ニューカレドニア(当時仏領)、オーストラリア(当時英領)、フィージー(当時英領)」 | |
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B東栄一郎氏からの反論 |
改訂案(2)と(3)の数値の問題ですが、失礼ながらこれらの数字には諸説があって、文献によって異なることが多々あります。特にアメリカ側の資料とのギャップがよく見られるので、わざと数値をぼかした次第です。この論文にはスペースの関係上、脚注はついていませんが、移民史の研究は、通常、日本の資料と渡航先の資料を突き合わせるのが、一般的なメソドロジーになっています。特に外務省の資料は問題が多いので、その利用には注意を払うのが一般的な分析法になっていることも付記しておきます。 |
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C筆者の反論 |
(2)、(3)については専門家のご意見に従います。但し、「外務省の資料に問題が多い」という論拠は、学部時代に外交史を研究していた小生にとっては奇異な感じがしました。移民史という特殊な分野ならではのことだと拝察します。 |