教科書では語りきれない日米関係の歴史150年
自由主義史観研究会理事 赤野達哉

 本稿は、ロサンゼルスで無料配布されている『ライトハウス』2008年1月16日号に掲載された、同名の無署名原稿執筆のベースになったものです。こういう雑誌にしては、結構「マトモ」なことを書くことができたと思っているのですが…。
 
この文書は概ね入稿時の内容ですが、若干の加筆修正をしています。掲載時には紙幅の関係で割愛された部分もあります。掲載されたものにつきましては、こちらからPDFファイルでご覧になれます


●はじめに

 日本の学校の教科書で日本とアメリカの関係を見ていると、アメリカは時期によって二つの顔で描かれていることがわかる。まずは、日本を開国させ、近代国家の仲間入りを手伝い、その後は「軍国主義」に陥った日本を懲らしめ、民主主義を与えてくれた「善玉」のアメリカと、戦後、共産主義に対抗し、世界に戦争を仕掛け、沖縄に基地を置く「悪玉」のアメリカだ。しかし、日米
150年の関係は、そんなに単純に片付けられるものではない。
 今回は、教科書には載っていない話題を中心に、ペリー来航に始まる日米関係史を概観してみよう。新しい時代の日米関係を築いているアメリカに住む日本人のために、歴史の基礎知識を提供したい。


第1章 幕末から日露戦争まで……生徒としての日本・先生としてのアメリカ

 1837年、アメリカの商船「モリソン号」が日本に来航した。異国船打払令に基づいて撃退されたこの船には、32〜3314ヶ月間も漂流し、アメリカに漂着して生き延び、ヨーロッパ経由で帰国しようとしていた日本人・音吉が乗船していた。彼と同じようにアメリカに渡った漂流者で有名なのは、ジョン(中浜)万次郎ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)。彼らは開国前後に、日米の橋渡しとして活躍する。
 さて、ご存知のように重い日本の扉を力で押し開いたアメリカ人は、有名なマシュー・ペリー【コラム1参照】だ。アメリカが日本を開国させようとした理由は、太平洋航路、特に捕鯨船の寄港地とするためだった。そのアメリカが日本に鯨を捕るなというのだから、まさに時代は変わったものだ。
 そのペリーは53年に黒船を率いて来航し、要求を呑まねば砲撃するとして、幕府に降参用の「白旗」をプレゼントした。それまで日本では白旗は源氏の旗で、勝利のシンボルだった。圧力に屈した幕府は、翌年に日米和親条約を結び、門戸を開いた。世界各地を旅したペリー艦隊の乗組員の記録によると、日本人だけが、招き入れられた艦内で、ただ驚くだけでは終わらず、懐から紙と筆を取り出してスケッチをしていたという。そしてわずか数年の後には、日本人は自力で蒸気船を竣工させてしまうのだった。
 日本人で最初にアメリカを公式訪問したのは、60日米修好通商条約の批准書を交換するため、咸臨丸で派遣された使節一行で、その中には、若き日の福沢諭吉が含まれていた。
 こうして、日本はアメリカを通じて開国したのだが、明治維新直前には、イギリスが薩長に、フランスが幕府に肩入れをしている中、アメリカは日本からやや遠ざかる。南北戦争のためだった。
 明治維新後、お雇い外国人がアメリカからもたくさん来航し、日本で西洋の学問や語学を教える先生となった。中でも有名なのは、札幌農学校(現北海道大学農学部)で、短期間ながら教頭(実質的には校長)として若者を感化した、ウィリアム・スミス・クラークだ。後に国際連盟の事務局次長となり、国際社会の掛け橋となりとなった新渡戸稲造は彼の教え子のひとりだ。
 さて当時の国際社会は、大きく3つのグループに分けられた。第1のグループは、欧米諸国である。議会制民主主義を行い、広く植民地を経営して、お互いに対等の権利を認め合っていた。勿論アメリカもここに含まれる。第2のグループは、清やトルコなど、第1のグループと不平等条約で結ばれながらも、一応自立した国。日本はこのグループだった。第3のグループは、いわゆる植民地であった。日本はその不安定な状態から脱出し、第1のグループと対等に結ばれるために近代化へまい進し、アメリカは友好国としてその手助けをしてくれたのだった。
 このような弱肉強食の国際社会で生き残るためには、地政学的に言って、朝鮮が日本と友好的である必要があったが、清は昔ながらの宗属関係で朝鮮を縛ろうとし、日清戦争(9495年)となる。これに勝利した日本だが、ロシアがフランス、ドイツと共に戦後の東アジア秩序の構築に干渉し(三国干渉)、清との間に対日軍事同盟を結んだために、東アジアは不安定なままとなった。その後義和団事件を機に満州を占領し、撤兵しなかったロシアに日本は脅威を感じ、平和的な交渉による撤兵を要求したが受け入れられず、日露戦争(1904−05年)となった。この戦争で、日本が戦費調達のために販売した外債の多くを引き受けたのが、ニューヨークにあったクーン・レーブ商会のヤコブ・シフであった。彼は同胞であるユダヤ人がロシアで迫害されていることに心を痛めており、日本に肩入れをしたのであった。
 日露関係を傍観していたアメリカに、日本はセオドア・ルーズヴェルト大統領とハーバード大学で共に学んだ金子堅太郎特使を派遣した。金子は米国内に親日的な空気を醸成することに成功し、間もなくルーズヴェルトは、日本海海戦で日本海軍が海戦史上に残る大勝利を収めた直後に、ポーツマスに日露両国代表を招き、仲介の労をとったのだった。この功績により、ルーズヴェルトはノーベル平和賞を受賞する。


【コラム1】沖縄にもやってきたペリー

 沖縄県那覇市山下町。何の変哲もない地名だが、かつてここは、「ペリー」という地名で、同名のバス停もあった。アメリカ軍が沖縄を占領していた時代、山下町という地名が、大東亜戦争(太平洋戦争)中に連合軍を苦しめた山下奉文陸軍大将を思い出させるとのことから、ペリーに改称されたという。
 なぜペリー? 実は、浦賀に姿を見せる前に、黒船は沖縄に立ち寄り、日本との条約調印後再びやってきて、琉米修好条約まで結んでいるのだ。ちなみに那覇市にある泊外人墓地の中に、「ペルリ提督上陸の地」と刻まれた記念碑がある。


●第2章 オレンジ・プランからワシントン会議まで……仮想敵国になった日本とアメリカ

 日露戦争の後、日本が満州の権益を得たるのを見たアメリカ財界の動きはすばやかった。すかさず鉄道王エドワード・ハリマンが訪日し、後に南満州鉄道となる鉄道を日米で共同経営するということで、桂太郎首相との間で覚書を交換した。しかしポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎外相がこれに猛反対し、その契約は破棄された。これが日米関係を悪化させるきっかけだったという説もある。ハリマンの提案はアメリカ政府の関わったことではなかったが、すでにヨーロッパに蚕食されていた清の市場で、唯一空白地帯となった満州に目をつけたアメリカは、そこを日本が独占しようと図っていると邪推し始めるのだった。
 またアメリカは日本の太平洋進出、特にフィリピンへ日本が触手を伸ばすことを極端に恐れた。05年に両国は、桂・タフト協定を結んで、アメリカは、日本の韓国への指導権を認め、日本はフィリピンに野心がないことを宣言した。一方アメリカは08年に、日本が保有する戦艦の2倍以上、16隻もの戦艦からなる大西洋艦隊を日本に寄航させ、示威を行った。白く塗装された戦艦は黒船ならぬ「白船来航」とよばれたが、日本は官民あげて、友好国アメリカの将兵を各地で大歓迎したのだった。
 アメリカの日本に対する警戒心は、実は日露開戦以前からおこっていた。ルーズヴェルト政権は「カラーコード戦争計画」のひとつとして、対日戦争計画・「オレンジ・プラン」を策定していたのだ。この計画は、数次の改訂を経て、実際に大東亜戦争で活用されることになる。
 さて米国内では00年前後から、西海岸で急激に増加した日本人移民に対する人種差別が、露骨に行われるようになっていた。06年にはサンフランシスコ市教育委員会が、日本人(韓国人を含む)学童の隔離教育を決定し、翌年には日本人が職を奪っているとして反日暴動が起こった。連邦政府は日本移民に理解を示し、日本政府も問題解決を図って、08年に日本が新規移民を自粛し、排日をしないことをアメリカが約束する日米紳士協定(協約)【*コラム2参照が結ばれたが、カリフォルニアをはじめとする諸州は、日本人差別の手を緩めず、13年にはカリフォルニア州で排日土地法が成立した。
 第1次世界大戦(1418)の戦後処理のために行われたパリ講和会議で、日本代表の牧野伸顕は、新しく生まれる国際連盟の規約に、移民への差別をなくす目的で、人種差別撤廃を盛り込む決議案を提案した。賛成多数であったにもかかわらず、議長であったアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが、重要な案件は満場一致が必要だとして、一方的にこれを否決してしまった。しかしそのアメリカは国際連盟に参加することはなかった。
 そして24年には、いわゆる絶対的排日移民法が成立した。日系移民は「帰化不能外国人」というレッテルを貼られ、移民と帰化を否定されてしまうことになる。日本国内では、友好国に裏切られたという感情が高まり、「日米戦争」が小説の題材になるようになった。 
 ところで02年以来日本と同盟関係にあったイギリスは、大戦中に連合国から再三陸軍の派遣を要請されながらそれを断った日本を見て、同盟の有効性に疑問をもつようになっていた。そんな中で、アメリカ大統領ウォーレン・ハーディングは、東アジア、太平洋の新しい世界秩序を構築するために、ワシントン会議を開催した。日本代表加藤友三郎は列国が注目する中、アメリカ提案の大幅な軍縮を宣言し、条約に基づいてそれを実行に移した(海軍軍縮条約)。その他中国と列国の関係では、中国の主権尊重と機会均等を宣言するが、事実上の現状維持を定めた9カ国条約、太平洋の現状維持を定めた4カ国条約に、日米は他国と共に調印した。これらの条約でアメリカは、将来の日米戦争の際に障害となる日英同盟と、日本の満州権益を認めていた石井・ランシング協定を廃棄することに成功した。つまりこの会議によって、日本の孤立化がアメリカによって進められたのだった。


【コラム2】移民制限の抜け道−写真花嫁

 日米紳士協定には、日本がアメリカ行きのパスポート(当時は行き先別に発行されていた)を発行できる例として、「現在アメリカ在住の家族を持つ者」という項目があった。在米邦人が一時帰国して結婚し、再渡航するということもあったが、経済的な負担は大きい。そこでいわゆる「お見合い」を、写真だけで済ませるという「写真結婚」という抜け道が生まれることになった。中には、自分のものではない豪邸や新車の前で撮った若いころの写真を送って女性をだました、というような話もある。こうして渡航した女性を、「写真花嫁」という。20年にこれが禁止されるまでの間、この抜け道からアメリカに入国した日本人女性の数は定かではないが、最大で7万人にも上ると言われている。


●第3章 満州問題から真珠湾まで−戦火を交えることになった日本とアメリカ

 20年代に入ると、中国国内では、反英運動を中心とする排外運動が起こり、中国と各国の関係は悪化していた。当時日本はアメリカへの移民が事実上途絶され、増加する人口のはけ口を、満州に求めるようになり、アメリカは満州進出を画策し続けた。満州はたえず、日米関係の重要な要素だった。日中関係は日米関係だったのだ。
 27年、当時の中国の首都・南京で、日本人を含む外国人多数が国民党軍に襲われ国際問題化した。アメリカはイギリスと共に、日本に対して共同で中国を攻撃することさえ提案したが、幣原喜重郎外相がそれを押しとどめた。間もなく蒋介石は28年に北京(北平)を占領し、新政府を樹立した。その後蒋は9カ国条約を顧みず、条約改正をせずに、なし崩しに権益の回収に着手し始めた。また、中国の民族主義が、共産主義思想の影響で過激化し、テロを含む排日運動が頻発して在留邦人を不安に陥れた。33年、満州での条約違反に業を煮やした日本の関東軍は、柳条湖事件を起こして南満州を占領。関東軍は政府の方針を無視し、ラストエンペラー・溥儀の野心を利用して、満州国を建国した。中国市場への参入を期待して門戸開放・機会均等を唱えたアメリカは、反日感情を強くするようになった。アメリカは日本には厳しかったが、中国の条約違反には甘かった。
 その後の日中間の小康状態を破った37年の盧溝橋事件をきっかけにして日華事変が起こると、国民党宣伝部はアメリカを中心に、世界中に反日プロパガンダを広げることに成功した。フランクリン・ルーズベルト大統領は国際法に違反して、アメリカ空軍の正規兵であるパイロットを義勇兵と偽らせ、フライング・タイガースとして日華事変に参戦させていた。つまり真珠湾よりもずっと先に、アメリカが日米戦争を始めていたということになる。
 一方、ルーズヴェルト政権には共産主義者が深く入り込み、ソ連の国益に基づく情報で政策に大きく関与するようになっていた。ソ連が期待する日米戦争への足音が次第に強くなっていた。英米のブロック経済(保護貿易)に対抗して、日本が東南アジアへ進出を図ると、アメリカは石油の禁輸措置をとり、いよいよ日本は行き詰まった。41年に始まった国交正常化のための日米交渉の最中、コーデル・ハル国務長官は、日本が絶対に飲めない条件「ハル・ノート」をつきつけ、日本はついに開戦を決意した。
 ルーズヴェルトが日本に第一撃をさせるために、真珠湾攻撃【コラム3参照】を知っていて放置していた、とはよく言われる話である。この説を唱える人々を、アメリカではリヴィジョニストと呼ぶ。状況証拠では、ルーズヴェルトに不利な状況証拠がたくさんあるのだが、歴史書を書き換えるまでには至っていない。


【コラム3】送別会が一因で奇襲攻撃?−真珠湾攻撃前夜

 真珠湾攻撃では日本政府の宣戦布告の通知が遅れたので、不名誉な「奇襲攻撃」になった。しかし、東京の外務省からワシントンの日本大使館へ送られた最後通牒は、攻撃開始時間には充分間に合うハズだった。この電報は最後の1通を除いて、12月6日には到着し、暗号が解読されていたので、その内容の重大さには大使館員全員が気付いていたはず。しかしその夜、転勤になった寺崎英成の送別会を中華料理店で開催したり、対米通告文を、専門のタイピストではなく不慣れな奥村勝蔵(後に外務事務次官)が行ったり、緊張感がまるでなかった。結果、コーデル・ハル国務長官に野村吉三郎、来栖三郎両大使が文書を手交した時には、真珠湾では日本軍の爆撃により、もうもうと黒煙が上がっていたのであった。
 世論調査によれば、真珠湾までは、90%以上のアメリカ国民は対日戦争に反対であったが、「インモラル・ギャングスター」(ルーズヴェルトの言葉)による「奇襲攻撃」に怒り、一丸となって日本と戦う決意をしたのだった。


第4章 占領からパートナーシップへ−再び友好国となった日本とアメリカ

 1945年、アメリカによる無差別空襲原爆投下の洗礼を受けた日本は、ポツダム宣言を受諾して降伏した。日本の代表が降伏文書にサインしたミズーリ号には、ペリーが掲げていた星条旗が掲げられていたという。
 日本はアメリカが中心とする連合国の占領下に置かれ、復興へ歩み始めた。日本統治の最高責任者であったダグラス・マッカーサー司令官【コラム4参照】は昭和天皇が訪問した際に、天皇が命乞いをするのではなく、国民を飢餓から救ってくれるように懇願したことに感銘を受け、その後の占領政策に影響があったという話がある。
 GHQ(連合国軍総司令部)による占領期間中に、アメリカは検閲とWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーションプラン)によって、戦後日本の枠組みを築いていく。見せしめのために事後法を作り、「東京裁判」を行って、「平和に対する罪」で戦前・戦中の日本の指導者を裁いた。GHQは、「東京裁判」や連合国に対する批判を一切許さず、検閲によって新聞、雑誌、ラジオ、映画などを厳しく取り締まった。例えば、復讐を題材とした「忠臣蔵」などは、演じることができなかった。こうしてGHQは、戦後の日本人の歴史観に大きな方向性を作り上げたのだった。これを「東京裁判史観」といい、近年それに対する批判が高まっている。
 さて、マッカーサーとGHQは、47年に英文の憲法草案を作って日本政府に与え(ちなみに、占領中の国が被占領国の憲法を作ることは国際法違反である)、日本から自衛権を奪った上で、アメリカ軍が日本の国防を担当する考えであった。ところがそれを覆す出来事が起こる。50年に北朝鮮が突如越境して韓国に攻め込み、朝鮮戦争が起こったのだ。在日米軍が出動した後の日本の治安を守るために、GHQは警察予備隊の創設を命じ、これが後に自衛隊となる。中国人民解放軍の参戦に業を煮やしたマッカーサーは、原爆の使用を主張して、ハリー・トルーマン大統領から司令官の任を解かれた。ちなみにマッカーサーは引退後の51上院軍事外交共同委員会で「彼ら(日本)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と証言している。
 アメリカは冷戦下での日本の役割を重視するようになり、早くも51年のサンフランシスコ講和条約で日本に独立を回復させた。日本とアメリカは同時に日米安全保障条約を結んで、米軍の駐留を認めた。大きな軍事力を持たなかったことは、日本の経済的回復を早め、それを背景に60年、岸信介内閣は安保条約を改定し、ようやく対等に近い関係を築き上げた。
 6070年代の日本の高度経済成長により、日本はアメリカを経済的に脅かす存在となり、68年には経済力がアメリカに次いで第2位となった。アメリカはベトナム戦争の長期化により、経済的に混迷状態に陥り、ドルと金の交換停止、変動為替相場制への移行などを次々と行ったが、対日貿易赤字は広がり、貿易摩擦がしばしば起こるようになった。大戦中からアメリカが占領したままだった沖縄72年に返還。当時の佐藤栄作首相が、平和裡に領土問題を解決したとしてノーベル平和賞を受賞した。
 90年代、冷戦がアメリカの勝利に終わった後、特に湾岸戦争の後は、日本が国際社会に対して、その国力に見合った責任を如何に果たすかという課題が、日本とアメリカの間にある今日的な問題となっている。自立した日本をどこまでアメリカは認めるのか、そして日本はどこまでアメリカの意向を尊重し、或いは自己主張できるのか。真のパートナーとして日米は新たな時代を歩み始めている。


【コラム4】「日本は12歳の少年」−マッカーサーは日本に期待した?

 ダグラス・マッカーサーは、「アメリカが40代なのに対して日本は12歳の少年」と述べた。当時日本人の精神年齢を揶揄したものだと良く言われるが、これには、「日本ならば理想を実現する余地はまだある」という言葉が続く。実はこの言葉は、ワイマール憲法と成熟した民主主義の制度を持ちながら、その下でナチスを強烈に支持したドイツ人を批判する文脈で使われている。実際ポツダム宣言でも、日本降伏の条件の中に「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし」とあり、マッカーサー発言は、12歳の日本が大人になることを期待してのものであったようだ。



●史実に基づいて日米戦争を描いた映画

 アメリカの映画界には、史実をもとにしたものは多くあるが、「ドキュメンタリー」と称するもの含め、史実をそのまま伝えるものは、少なくとも日本に関しては存在しないと言っても過言ではない。そんな中で、比較的史実を忠実に描いた3作品と、滑稽なまでにゆがめている作品ひとつを紹介する。


《オススメ》『トラ・トラ・トラ!“TORA! TORA! TORA!”

公開:1970
監督:リチャード・フライシャー舛田利雄深作欣二
出演:マーティン・バルサム山村聰ジョゼフ・コットン三橋達也東野英治郎マコ・イワマツ

 題名は、1941日本軍による真珠湾攻撃のときに日本海軍が使用した暗号文。日米合作で、あまりにも史実に忠実だったので、日本では空前の大ヒット、反対にアメリカでは興行的に大失敗した。史実への忠実さは、真珠湾攻撃の原因が無防備にあったという、戦時中の司令官たちへの批判に追随せず、連邦政府に責任を問う内容になっていることでもわかる。日本側の監督を巨匠・黒澤明が務める予定だったが、制作会社との対立からか、撮影直前に降板。黒澤は海軍出身の作家、阿川弘之の『山本五十六』をベースに脚本を執筆していたが、この映画に黒澤の名前は一切登場しない。



《オススメ》『ミッドウェイ』 “Midway”
公開:1976
監督:ジャック・スマイト

出演:チャールトン・ヘストン/ヘンリー・フォンダ/グレン・フォード/三船敏郎/ロバート・ミッチャム

 世界のミフネ、『十戒』のチャールトン・ヘストンという、日米の大スターを起用した大作。ラストの、事実上の日米決戦に勝利した太平洋艦隊が真珠湾に凱旋するシーンで、見事に『トラ・トラ・トラ』のリベンジを表現し、興行的にもそれを果たした作品。実際の歴史でも、ミッドウェイ海戦で日米の形勢は完全に逆転し、その後はアメリカの圧倒的な物量作戦に、日本は追いつめられていくことになる。架空の登場人物による人間ドラマが盛り込まれており、単なる戦争映画でも、ドキュメンタリーでもない。この時期に、戦時中に日系人を強制収容したという、明らかな人種差別を描き出せたことも評価されている。



《オススメ》『硫黄島からの手紙』Letters from Iwo Jima

公開:2006
監督:クリント・イーストウッド
出演:渡辺謙/二宮和也/伊原剛志/加瀬亮/中村獅童/裕木奈江/松崎悠希山口貴文/ケン・ケンセイ/ ルーカス・エリオット

 『父親たちの星条旗』とともに、硫黄島で戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」の作品。硫黄島という小さな島で、物量的には圧倒的に勝っていたアメリカ軍との戦いを指揮した栗林忠道中将。彼が家族へと向けた手紙を基にストーリーが展開される。硫黄島の戦いは、米軍の死傷者が、日本軍の死傷者を上回った唯一の戦いである。イーストウッド監督は、日本の兵士もアメリカの兵士も人間として何も変わらないということに気づいたとして、日本人監督を起用する方針を覆し、自ら監督になった。通常は立ち入り禁止の硫黄島でも、東京都の許可により史上初ロケが行われた。映画であるにもかかわらず、日本人に対する差別的表現がほとんどなかったことが非常に評価され、日本で「硫黄島ブーム」を巻き起こした。


《オソマツ》『パール・ハーバー』 “Pearl Harbor”

公開:2001
監督:マイケル・ベイ
出演:ベン・アフレックジョシュ・ハートネットケイト・ベッキンセイルキューバ・グッディングJr. トム・サイズモアアレック・ボールドウィンジョン・ヴォイトマコ・イワマツ

 日本軍による真珠湾攻撃と、アメリカ軍による初の日本本土空襲までの史実を背景にした恋愛映画。興行的には成功し、CGと音響に対する評価も高かったが、特に日本に対する偏見はひどく、映画評論家や識者からは酷評を受けた。特に酷かったのは時代考証。日本軍の作戦会議が屋外で行われていたり、海軍の艦内でロウソクが使われていたりと、常識では考えられないようなシーンが続出。また日本軍が真珠湾攻撃で、病院や市民を標的に攻撃しているシーンは完全に史実に反している。逆に、日本初空襲の際に、米軍機が軍事施設以外は攻撃しなかったように描かれているが、実際には小学生に機銃掃射したという事実さえある。娯楽映画といえばそれまでだが、史実を下書きにしているにしては、余りにもお粗末な内容だ。



◆日米関係を読む

通史ではなく、各時代の特徴的な人物や出来事を取り上げた書籍を紹介する。小説も研究書も、読みやすいものを中心にチョイスした。


『ヒコの幕末漂流民ジョセフ・ヒコの生涯』
山下昌也(著)
◆出版社:水曜社
◆出版年:2007

 鎖国の時代に漂流民としてアメリカにたどり着き、アメリカで教育を受け、アメリカ人となり、開国後に日本に帰ってきたジョセフ・ヒコこと、浜田彦蔵の生涯を通じて、幕末から明治初年の、激動の時代を描く伝記小説。いったんは帰国の途につきながらも、香港で他の漂流民の経験を聞いてアメリカに戻ったヒコ。日本の開国後も、カトリック教徒となったため、帰国するために逆に米国籍をとるなど、当時の日米の狭間で懸命に生きたヒコ。両国の間で翻弄される彼の姿は、恵まれた時代ではあるが、祖国を離れアメリカで奮闘している私たちを励ましてくれる。



『関東大震災と日米外交』
波多野勝/飯森明子(著)
◆出版社:草思社
◆出版年:1999

 1923年9月1日、今も語り継がれる関東大震災の直後、米国はヒト・モノ・カネと、洪水のような援助を日本に対して行う。ベッドだけで6000床も送られてきたという。日本政府は、受け入れ態勢が整っておらず、この「友情」に困惑する。支援に乗じて共産主義を宣伝しようとしたソ連のように、他国と同様、アメリカの支援にも外交的、政治的な意図があった。議会の圧力に屈して排日移民法に署名したキャルヴァン・クーリッジ大統領は、日本への支援を関係改善のきっかけと位置づけていたのだ。1906年に発生したサンフランシスコ大地震での日本の支援や、日系移民への人種差別などにも詳しく言及されており、大正期から昭和初年にかけての日米関係が、関東大震災を軸に物語のように展開する。



真珠湾<奇襲>論争 陰謀説・通告遅延・開戦外交』
須藤真志(著)
出版社:講談社(講談社選書メチエ)
出版年:2004

 日米開戦外交研究の第一人者、須藤真志京都産業大学教授の著作。日華事変の長期化、アメリカとの対立の激化、生存権確保の為の日本の東南アジア進出、そしてアメリカによる対日禁輸、そして日米交渉と歴史は流れ、「ハル・ノート」を起爆剤に、日本は真珠湾攻撃を敢行。しかし、センセーションを巻き起こした、ロバート・スティネット著『真珠湾の真実ルーズベルト欺瞞の日々』(文藝春秋社)などで描き出される陰謀論を、史実に基づいて冷静に否定している。その他、開戦直前の複雑な日米外交がわかりやすくまとめられている。





『マリコ』
柳田邦男(著)
◆出版社:新潮社(新潮文庫)
◆出版年:1983

 日米の狭間に生きた、ひとりの女性、マリコ・テラサキ・ミラーの数奇な人生を中心に、日米関係史を側面から描いたノンフィクション。真珠湾攻撃が「奇襲攻撃」の汚名を着せられたのは、彼女の父である寺崎英成の送別会が行われたせいでもあった。本書では、父・寺崎が日米開戦を阻止するために奔走した姿も描き出されているが、実際には大失態を演じ、国の名誉を傷つけた外務省と外交官が美化されているのには、いささか疑問が残る。軍=悪、外務省=善という善玉悪玉論が下敷きにあるように思える。ちなみに寺崎は戦後御用掛として、『昭和天皇独白録』(文春文庫。寺崎とマリコの共著となっている)を書き留める大役を担うことになるが、真珠湾の真実を天皇が知っていたら、どのように思っただろうか。


『アメリカの日本空襲にモラルはあったか戦略爆撃の道義的問題』 (新装版)
ロナルド・シェイファー(著)/深田民生(訳)
出版社:草思社
出版年:1996

 日華事変に際して、日本軍が重慶などを爆撃したとき、フランクリン・ルーズヴェルト大統領はこれを声高に非難したが、日米、米独開戦後、アメリカ軍は当初の「精密爆撃」戦術を地域爆撃へ、そして無差別爆撃へとエスカレートさせていく。あの批判は何だったのか? その間に組織的虐殺は正当化され、世論の支持を受けていたのだった。東京大空襲では一夜にして10万人の市民が犠牲になった。余程の周到な準備がない限り、このような死者は出ない。単なる銃や軍刀ではそうはいかない。実際アメリカ陸軍省は「組織的士気破壊」を行うために、心理学者まで動員して研究を重ねていたのだ。そして、無差別爆撃は行われた。歴史問題で日本にモラルを説くアメリカに、果たしてモラルがあったのかを疑わせるのに十分な内容。


『アメリカの鏡−日本』(新版)
ヘレン・ミアーズ(著)/伊藤延司(訳)
出版社: 角川学芸出版
出版年:2005

 相変わらず日本は歴史問題で攻撃されているが、本当は、日本は何をしたのか、何が悪かったのか。そしてなぜ日本は大東亜戦争に走ったのか。誰もがあまり冷静に顧みないこの命題を、終戦直後にアメリカ人女性が総括していたことが驚きだ。「日本とは欧米が作った鏡であり、そこに映っているのは欧米自身の姿だ」とミアーズは言う。アメリカが開国させた日本は、欧米諸国にとっては優等生であった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本が戦争をし、領土を拡張し、勢力圏を拡大してきたことは、すべて欧米がしてきたのと同じこと。「アメリカは日本を裁く資格はない」と、GHQの職員でありながら、彼女は祖国を鋭く批判する。ダグラス・マッカーサー司令官が、日本語での翻訳出版を禁止したという事実が、ある意味で本書の価値を裏付けている。





◆日米関係史略年表

1837年 モリソン号来航、異国船打払令に基づき撃退
1846年 東インド艦隊司令長官ジェームス・ビッドル来航。日本は開国要求を拒否
1853年 東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー来航
1854年 日米和親条約締結
1856年 タウンゼント・ハリス総領事着任
1958年 日米修好通商条約締結
1860年 咸臨丸で福沢諭吉ら渡米
1861年〜1865年 南北戦争
1868年 大政奉還、明治維新となる
1872年 岩倉使節団訪米
1889年 大日本帝国憲法発布
1899年 日米通商航海条約締結、治外法権撤廃
1894〜95年 日清戦争
1895年 三国干渉
1900年 義和団事件、日米ともに清へ出兵
1901年 セオドア・ルーズヴェルト政権成立、対日戦争計画策定に着手
1904〜05年 日露戦争
1905年 ポーツマス条約締結、アメリカが仲介。日本は満州権益を獲得
桂・タフト協定調印、日本は米領フィリピンへの野心がないことを宣言
1906年 サンフランシスコ市が日本人学童の隔離を命令、日本人への人種差別顕在化
1908年 日米紳士協定調印、日本が移民制限を約束
高平・ルート協定調印、再度、太平洋の現状維持を確認
1909年 アメリカが満州の鉄道中立化案を提案、日露両国が拒否
1911年 日米通商航海条約改正、関税自主権を回復。条約改正なる
1914〜19年 第一次世界大戦
1917年 石井・ランシング協定調印、アメリカが日本の満州権益を認める
1918年 アメリカがチェコ軍救済のためシベリアへの共同出兵を提案、日本の派兵をめぐり日米対立
1919年 パリ講和会議開催、国際連盟規約委員会で日本が人種差別撤廃を提案するもアメリカが拒否
1920年 国際連盟発足、アメリカは参加せず
1921年 ワシントン会議開催、海軍軍縮条約、四カ国条約、九カ国条約を締結
日英同盟、石井・ランシング協定破棄
1923年 関東大震災、アメリカが日米関係改善のために復興に協力
1927年 南京事件、英米の武力行使を日本がやめさせる
1929年 ニューヨークでの株式暴落をきっかけに世界恐慌発生、欧米列強は保護貿易主義に転換
1931年 満州事変、翌年満州国建国。日米関係悪化
1933年 フランクリン・ルーズヴェルト政権成立
1934年 日本がワシントン条約の廃棄を通告
1937年 日華事変、ルーズヴェルト大統領が密かに空軍正規兵を参戦させる
中国のプロパガンダ盛んになり、米国世論は次第に反日へ
1939〜45年 第二次世界大戦、開戦当初は日米共に中立
1940年 日本がフランスとの協定で北部仏印に進駐、翌年南部にも進駐
1941年 英米蘭が日本資産凍結、アメリカが対日石油禁輸、日米交渉
「ハル・ノート」がきっかけで真珠湾攻撃、日本は対英米蘭戦争を大東亜戦争と命名
1942年 ミッドウェー海戦、日米の形勢が逆転
1945年 硫黄島の戦い、東京無差別空襲、沖縄陥落、原爆投下
ポツダム宣言受諾、降伏文書調印
日本は連合国の占領下に置かれる
1946年 GHQの原案をベースにした日本国憲法発布、翌年から施行
1948年 事後法による「東京裁判」の判決が下る
1950年 朝鮮戦争勃発、ダグラス・マッカーサー司令官が警察予備隊創設を指令
1951年 ハリー・トルーマン大統領がマッカーサーを解任
サンフランシスコ講和条約調印。日米安全保障条約締結
1960年 日米新安保条約成立
1970年 日米安保条約自動延長
1971年 沖縄返還協定調調印
リチャード・ニクソン大統領が北京訪問を発表(ニクソン・ショック)
ドルと金の交換停止(ドル・ショック)
1974年 ジェラルド・フォード大統領がアメリカ大統領として初めて来日
1976年 ロッキード事件発覚
1991年 湾岸戦争、日本は人的支援をしなかったことで国際的に非難を浴びる
ソ連消滅
1992年 日本でPKO法成立
1993年 日本のコメ市場部分開放が決定
2001年 9.11同時多発テロ
2003年 米軍がイラク攻撃を開始
自衛隊のイラク派遣が決定
2007年 米国下院が偽慰安婦謝罪決議を採択


◆日米関係史《確認》クイズ

1837年、最初に日本へやって来たアメリカ船の名前は?
漂流してアメリカに渡り、幕末維新に活躍した人物は(2人)?
ペリーが江戸幕府にプレゼントした旗の色は?
咸臨丸に乗っていたお札の肖像画で有名な人物は?
クラーク博士の弟子で、やはりお札の肖像がになった人物は?
日露戦争中にアメリカに渡り、ロビー活動などで親日的な空気を作った人物は?
日露戦争後、日本にやってきた「鉄道王」の名前は?
アメリカが日本の韓国への指導権を認め、日本はフィリピンに野心がないことを宣言した協定は?
「カラーコード戦争計画」の中の対日戦争計画は何色?
10 日本人移民に対する人種差別を解消するために結ばれた協定は?
11 日本が行った、国際連盟規約に人種差別撤廃を盛り込む提案を葬ったアメリカ大統領は?
12 第一次大戦後にアメリカで行われ、日本の孤立化を方向付けた国際会議は?
13 アメリカが進出を画策し続けた中国の地方はどこ?
14 アメリカの反日感情を強くするようになった、1931年の日本の軍事行動は?
15 フランクリン・ルーズベルト大統領が日華事変に参戦させたアメリカ空軍の正規兵の呼び名は?
16 日米交渉の最中にアメリカ側から突きつけられた、日本が絶対に飲めなかった条件は?
17 真珠湾攻撃をルーズヴェルトの陰謀と考える人たちを何と言う?
18 占領下のアメリカが行った、日本人に罪悪感を植え付けるプログラムは?
19 サンフランシスコ講和条約と同時に結ばれた日米間の条約は?
20 ノーベル平和賞を受賞した日本の総理大臣とアメリカ大統領は?